コウダプロ憲法
Kouda-Pro Constitution
コウダプロは2016年4月に株式会社天真堂WESTという社名で設立された。
その後2017年6月に株式会社コウダプロに社名変更し、現在に至る。
コウダプロという社名については、当初、天真堂WEST時代には商品開発が業であることから、商品=プロダクツという意味から、コウダプロダクツという社名に内定していた。
しかしながらコウダプロダクツだと、意味が狭くなり、多岐にわたるジャンルの事業展開に支障が出るとの考えから、より広義の解釈が可能である、コウダプロという社名となった。
その経緯が象徴するように、コウダプロにおいては、企業目的と経営理念を逸脱しない範囲において事業領域は無限である。
事業戦略上の合理性やタイミングは当然考慮するとしても、その本質において、コウダプロの事業領域に制限は存在しない。
コウダプロは『面白屋』であり『ワクワク屋』である。
面白くてワクワクすることなら何をやってもよい。
それこそがコウダプロが持つ価値そのものである。
コウダプロは100年後も存在しているだろうか。
それは誰にもわからない。
しかし、こう言うことはできる。
『面白屋』でも『ワクワク屋』でもなければ、もはやそれはコウダプロではない。
そのような状態で会社が、ただ生きながらえていたとしても何の意味もない。
その時々の経営者および各社員においては、自問自答しつづけることを願ってやまない。
コウダプロがコウダプロでありつづけるために、私たちは『面白屋』『ワクワク屋』でありつづけているだろうか?と。
第一章 企業目的及び企業理念
コウダプロの企業目的
第一条
- コウダプロは仲間と冒険をすることを企業目的とする。
- この企業目的に賛同できない者は、コウダプロのメンバーではない。
- 企業目的に反する上に儲からない事業は、考えるまでもなく実施しない。
- この企業目的に反する者は、コウダプロのメンバーではない。
コウダプロにおける仲間の定義
第二条
- コウダプロにおける仲間とは、開かれた心を持ち、職業生活及び人生を通じて、より高度な人間性の獲得を目指し、且つコウダプロ憲法に共感する者である。
- 働くことを単なる労働対価や経験値の獲得手段と考える者は仲間ではない。
- コウダプロにおいては、より高度な人間性の獲得への研鑚を指して「心の玉を磨く」と表現されることがある。
- 開かれた心とは、一般に言う「素直さ」や「心の柔らかさ」に近いが、より厳密に定義するならば「自分が宇宙の一部であると思える感性」のことである。
- この仲間の定義に外れる者は、コウダプロのメンバーではない。
コウダプロにおける冒険の定義
第三条
- コウダプロにおける冒険とは、事業活動を通じたあらゆる可能性の追求である。
- 事業を実施する国の法令、公序良俗およびコウダプロ憲法以外の、冒険に対する制約は存在しない。
- すべての冒険はワクワクするものである。
- 冒険に価値を見出せない者は、コウダプロのメンバーではない。
コウダプロ憲法の解釈
第四条
- コウダプロ憲法の解釈は、経営者および社員の疑問と思考によって深めるものとし、おおよそ普遍的であるが、その普遍性は常に探求されるべきである。
- 前項に定める解釈の不一致によって問題が生じた場合は、代表取締役の解釈をもって正とする。
第二章 運
宇宙のリズム
第五条
- 宇宙のリズムと会社および個人のリズムが噛み合い、共振している状態のことを運が良いという。コウダプロにおいては、宇宙のリズムに逆らうことがないよう留意する。
- 宇宙のリズムは不可視であるので、各人が不断の努力により感覚を磨き、感じ取らねばならない。
宇宙の流れ
第六条
- 第五条の宇宙のリズムとは別に、宇宙の流れというものが存在する。厳密なる定義は困難だが、例えば景気の短期波動と長期波動のようなものであろうか。宇宙のリズムが「幸運にあふれた日常」に関わる事であるなら、宇宙の流れとは「人生のどん底で幸運のキーマンに出会った」というような事象に関わる。コウダプロにおいては宇宙の流れを味方につけられるよう留意する。
- 特に経営判断を行うものは、宇宙の流れを意識して事にあたるべきである。
- 宇宙の流れは不可視であるので、各人が不断の努力により感覚を磨き、感じ取らねばならない。
宇宙の流れの性質
第七条
-
コウダプロにおいて、宇宙の流れはしばしば「流れ」と形容される。「流れ」と形容されるものにはひとつの重要な性質がある。それは「流れは、流れの存在を信じて疑わぬものに対してポジティブに作用する」という性質である。これは誤って理解することがないように留意が必要であるが、流れは意思を持たない。つまり流れがポジティブに作用するとは、流れが味方をするという意味ではない。
たとえば海流や、河川の流れに意思があるだろうか?
それらが誰かを溺れさせようという意思を持つだろうか?
また、溺れる誰かを助けようという意思を持つだろうか?
そのようなことはありえないだろう。ではなぜ、流れはそれを信じて疑わぬものにポジティブに作用するのか?2つの理由がある。
・1つ目の理由は、海流の存在を前提として海原に出た者とそうでない者の両者において、海流はどちらの者にポジティブに作用するだろうか?と考えた場合、答えは自明であろう。その意味合いにおいて、流れはそれを信じて疑わぬ者にポジティブに働く。
・2つ目の理由は、人は時として『カオス』と形容されるような究極の場面に立つことがある。カオスの中では、様々な流れが交錯し、人は想像を超える感情の坩堝や、苦しみや、不安や、恐怖や、嫉妬や、執着の只中に置かれ、パニック状態にさえ陥ってしまう。その中で人はもがき、思考は停止する。つまり、そのような状態の中で正気を保ち、流れを失わない判断と行動をしようとするならば、それは流れの存在を信じて疑わない者以外、そもそも不可能ではないだろうか。
- コウダプロのメンバーにおいては、流れの実在性を認識できるように鋭意努められたい。
陰と陽のバランス
第八条
- 各人は宇宙のリズム及び宇宙の流れが陰と陽のバランスで成り立っていることを意識し、バランスを意識した行動を心掛ける。
- 陰と陽のバランスを崩すと、それが人間社会の尺度において正義とされることであってもそれは宇宙様の嫌うところであり、運は散逸する。
- 時にはバランスを崩してでも大鉈を振るわねばならないこともある。その際は大きな作用には必ず大きな反作用が伴うことに留意し、その反作用が正の作用に転化するように意識せねばならない。
カオス
第九条
- 流れと流れが錯綜し、絡まり合い、ぶつかり合い、あたかも激流を形成するような場面を『カオス』と呼ぶ。カオスの中にあっては、通常機能する直感は機能が大幅に低下し、正しい判断が難しくなる。
- カオスの中で、宇宙の流れに嫌われることのない思考と判断と行動に終始すれば、どんなに混沌とした問題が存在したとしても、必ず道は開け、流れはカオス以前よりも加速する。
- 前項にある宇宙の流れに嫌われることのない思考と判断と行動とは、一義的に言えば、自己正当化することなく、逃げ出したくなるような目の前の問題に対して、真正面から向き合う事である。そうすれば必ず道は開ける。それは、会社が倒産し迷惑をかけた債権者に対して、誠心誠意お詫びと返済の意思を伝えた際に「その態度が気に入った」と言って浮上のチャンスを貰ったというような逸話が世間にあるが、そのような事象である。もし問題の本質から目を背けたならば、同じ課題が事例を変えて何度でも目の前にやってくることになる。
- カオスの中では、「原理原則に従い、あとは出た目が正解」という態度で臨むのが良い。問題の解決にあらゆる思考を動員し、解決に最大限の努力をするのは言うまでもないが、その結果は「出た目が正解」とばかりに、宇宙様にゆだねてしまうのだ。自ら結果を望んではいけない。結果を望むことなく、原理原則に従って、最善の結果が出るように努力をし、後は宇宙様に任せるのだ。カオスの中にあっては、それが一番道を間違わぬ態度である。
- カオスの中では、保身と執着が最も宇宙様の嫌うところである。カオスの激流の中にある時は保身と執着を持たぬように留意が必要である。
出た目が正解
第十条
- 出た目が正解とは、宇宙の流れに嫌われることのない心の在り方や判断、行動を尽くしたあとは、宇宙様に身をゆだねる感覚である。俗にいう「運を天にまかせる」「人事を尽くして天命を待つ」という言葉に近いかもしれない。
ここでいう「正解」だが、人間の尺度ではそれが正解に見えないことが多い。目の前の損失や失ってしまう事の大小に目を奪われてしまうからである。そこで人は策を弄したり、目の前の安易な解決法に飛びついたりなどするが、それは自滅の道である。
宇宙の流れから嫌われぬ、原理原則に基づく自分の深い心に基づいて行動したのちは、出た目が正解である。例えば、ある人を信じて詐欺にあったが、それが上辺の儲け話に乗ったのではなく、騙されても良いとの判断で進めた話であれば、その結果は仮に詐欺の被害にあったとしても「出た目が正解」として受け止めるべきである。もし詐欺の被害という損害に目を奪われ、自分を詐欺の被害者としてしまった場合は、さらに大きなものを失ってしまうことになるだろう。
双方向性
第十一条
- 第八条の陰と陽のバランスにも一脈通ずるところがあるが、コウダプロにおいては事象の捉え方や、判断の軸として、しばしば双方向性という概念が用いられる。これは物事の本質や解は、往々にして双方向性の中に存在することによる。双方向性はおおよそにおいて流動性を伴う。つまり、逆説的に言うと流動的でなく固定的な解は間違っていることが多い。
例えば、離職率の低い会社は良い会社だ。子供は厳しくしつけた方が良い。原子力発電所は廃止すべきだ。デートの時の食事代は男が払うべきだ。嘘をついてはいけない。大学には借金してでも行くべきだ。講演を聞くときにメモは取るな。メモは取れ。・・・このような命題を居酒屋で侃々諤々議論をするのは楽しくもあるが、ほとんどの事例において、正しい答えは「状況による」である。つまり流動的なのだ。コウダプロでは、この流動性の中で判断を行う時に、双方向性の中に解があると考える。経営者が社員に対して「会社で働いてくれてありがとう」と感謝することは一般的に美しい。しかし、社員の側が天狗様になり「この会社で働いてやっている」という態度であった場合、その経営者の感謝は、果たして美しいものだろうか?おそらく「働いてやっている」という社員に向き合って、考えを改めるように、一歩も引かぬ態度が求められるだろう。
経営者は社員に「働いてくれてありがとう」と感謝し、社員もまた働ける職場があることに感謝をする。おそらくそれが最も美しい関係ではないだろうか?
それは、どちらかだけの努力では成立せず、双方の不断の努力で実現する。そのような関係が美しい双方向性とされており、コウダプロで重要とされる概念である。
ユーモアの精神
第十二条
- ユーモアの精神は運に繋がる明るさや、生産性につながる人間関係の円滑さなど多岐にわたり作用を及ぼすものである。コウダプロにおいては、いついかなる時もユーモアの精神が尊ばれる。
淡々とする
第十三条
- 流れが良い時も悪い時も、常に淡々としておくのが良い。淡々とすることが運を呼び、運を繋ぎとめる。
第三章 考え方
自分で選んでここにいる
第十四条
- コウダプロが未来永劫、絶対に変えてはいけない考え方が存在する。
「自分で選んでここにいる」という立脚点である。
これだけは絶対に変えてはいけない。
どれだけ優秀で能力が高い社員であっても、会社は「来るもの拒まず、去る者追わず」という姿勢で臨むべきである。コウダプロは社員が、数ある会社の中からコウダプロを選んで働いてくれていることに最大の感謝をすべきである。
しかし「コウダプロで働いてください」とお願いすることは絶対にない。
コウダプロで働いているのは社員の選択である。
自分で選んでここにいるのである。
コウダプロは完全に言論の自由が保障された会社である。
会社への愚痴を言うのであれば、自分の考えを発言して会社を変えるか、コウダプロ以外の職場を選択すべきである。
素直さの定義
第十五条
- 世間一般に素直さとは「自分の考えをさておき、他人の考えを受け容れる事」とされることが多いが、コウダプロにおいては素直さの定義が異なる。
コウダプロにおいては、他者から自分の考えとは異なる意見を伝えられた際に「この人には自分には見えていない何かが見えているのかもしれない」と考えてみる心的姿勢のことを素直さと定義している。
- 「自分には見えていない何かが見えているのかもしれない」可能性を検討し熟慮した結果、相手の意見を受け容れないと判断することがあるのは言うまでもない。
思考停止の禁止
第十六条
- 経営者および社員が自らの疑問と思考によらずして、コウダプロ憲法条文を、すべて前提として正とする態度は厳に慎み、自らの言葉で他者に各条文の解釈を伝えることを能う責任を負う。
こざっぱりする
第十七条
- 平素より自らの精神をこざっぱりさせておくことが重要である。いわば「立って半畳寝て一畳」という心境を持っておくことはとても重要である。
- 高い業績が出た時や、上司となって権限を持った時などに、人間は勘違いして尊大になり天狗様になる。それを防ぐためには謙虚な気持ちが重要といわれるが、実はこれはこれで難がある。謙虚な自分を誇るようになってしまうし、謙虚さが足りないと思われる人物を批判する気持ちが生まれる。
- こざっぱりしておくと、このちっぽけな自分ごときが、という心境となり勘違いを防いでくれる。
- こざっぱりさが失われ尊大となった者は、セクシャルハラスメント・パワーハラスメント・横領等の不祥事を引き起こすことが多く、注意が必要である。
裁かない
第十八条
- つい人は自分の尺度を万人に適用して、自分の基準で人を裁いてしまう。これには強い警戒心を持つべきである。これは全てを受け入れて、批判や攻撃をしないという意味ではない。すべてを受け入れるならば、それはただの迎合である。人が人を裁くとき、事象のありのままを見ることができなくなってしまう。それが問題の本質である。
- コウダプロ憲法第一条2項、第二条5項および第三条4項には、メンバーの排除規定も存在する。それは本条に規定される「裁く」ことなのか、そうではないのか、各人が自ら思考することが重要である。
芽を摘む
第十九条
- 悪い考えが芽生えた瞬間に、それを摘み取るように努めなければならない。人間だれしも、褒められたら嬉しいし、調子にも乗る。自らの仮説が的中し、事業が上手くいった時などは、自分は世界一の天才である、というほどの心境にもなる。その気持ちが大きくなってしまうとやがて自分でも制御できぬ状態となる。このように人間の心には悪い気持ちが常に萌芽するものである。人間が人間である以上、悪い心の芽をなくすことは出来ぬが、芽生えた直後に摘み取ることはできる。
- いわゆる人格者は悪いことを考えないというのはおそらく誤解である。人格者とそうでない者の違いは、悪い考えが芽生えた直後に摘み取るか、それが大きく育ってしまうかの違いではないだろうか。
- 摘み取るべき芽は悪い考えのみとは限らない。人によっては「自分など価値がない」という自虐の気持ちや完全主義の罠に陥り「私はできていないことだらけだ」と卑下してしまう気持ちなどもある。それらも同じく芽生えた瞬間に摘み取る対象である。
第四章 組織
上司は偉いということを理解する
第二十条
- コウダプロにおいて、上司は自分よりも偉いということを理解しなければならない。
- 上司の「偉さ」とは業務を行う上での会社から見た価値の重みであり、人類普遍的な意味においての人間存在としての価値の重みのことではない。いうまでもなく人類普遍的な意味において人間の価値は平等である。
- 上司の「偉さ」は、業務上の判断力の高さと、コウダプロ憲法への理解の深さと体現性に由来する。
- 業務上の判断力が低く、コウダプロ憲法への理解も体現性も乏しい場合は、上司の「偉さ」の根拠がない状態である。
上司は偉いということから逃げない
第二十一条
- 第二十条において、上司は「偉い」と定義することは、とりもなおさず、上司には部下よりも重い責任、高度な倫理観、人間性の広さおよび深さが求められると解することは当然である。それを伴うことのない「上司の偉さ」は、腐敗した権力そのものである。上司は偉いと自ら宣することは、自らに責任を負わせる行為に他ならない。
- コウダプロにおいては「上司は正しい」という前提に立つが、残念ながら上司が間違うこともあれば、本来上司になってはいけない者が上司になってしまうこともある。そのような可能性に鑑み、コウダプロ憲法においては第二十三条に「コウダプロ裁判」、第二十四条に「建設的な提言」が規定されている。つまり、コウダプロにおいては上司は判断力があり、コウダプロ憲法の体現者であるという前提に立つが、その限りでない場合には部下側は上司を正し、場合によっては排斥することさえ可能な剣を保有しているのである。
人を大事にする
第二十二条
- コウダプロの財産は人である。コウダプロは人を大事にする会社でなくてはならない。
- 人を大事にするとは、人を人として見るということである。決して過度に優しくしたり、過保護にしたり、迎合したりすることではない。
- 自分を利するための、利用の対象として人を見る時、人を人として見ていないとなる。
コウダプロ裁判
第二十三条
- コウダプロにおいては上司の判断、在り方に疑義を持つ部下はコウダプロ裁判を提起することができる。
- この裁判を受ける権利はコウダプロの民主主義の根幹をなすものであり、不可侵に尊重されなければならない。
- コウダプロ裁判は所定の要件と手続きの下、実施される。
建設的な提言
第二十四条
- 役職の上下、社歴の浅い深いにかかわらず、建設的な提言は何人もこれを妨げてはいけない。
- 提言は礼節をもって伝達しなければならない。
上司と部下のコミュニケ―ション
第二十五条
- 上司が判断を誤った場合、とかく部下は上司を批判しがちであるが、部下としては「上司が判断を誤ったのは、自分が正しい情報や提言を、十分な量伝えていなかったからだ」と考えるべきである。
- 上司は部下から上げられた報告や提言が、自らにとって不都合な事実であったとしても、率直に事実を直視し、新たなる判断をしなければいけない。この時、上司は部下からの報告や提言が自分にとって不都合であったり、感情的に受け入れがたいものであったとしても、意地を張って反論否定するようなことは厳に慎むべきである。
- 前項に反する者はコウダプロの管理職とは言いがたく、降格されるべきである。
- 本条の前提となる思想を「フォロワーシップ」といい、コウダプロの管理職はフォロワーシップについて第三者に説明するに能う状態でなければならない。
フォロワーシップの本質
第二十六条
- コウダプロにおけるフォロワーシップの本質とは【組織の本質はあたかも軍隊的である】ということと【社員の自主性に基づきワクワクしながら主体的に仕事をする】ということの、一見背反する二つの要素を両立する機能である。
- 上司が部下からの提言を【合理的な提言であるかどうか】という一点をもって判断する時、部下の提言が合理的であるならば部下の提言はすべて裁可されるという事になる。これは部下が決裁権を持っているのと同じ状況であるといえる。
エゴを論理性で包(くる)んではならない
第二十七条
- エゴを論理で包むことは厳に慎まねばならない。おおよそ自己の望む結論に議論を誘導しようとする者は、「私が得をしたいので、このようにすべきだ」と主張することはない。あたかも論理的かつ公益を考えたものであるかのように主張する。これは組織内の信頼関係および、信頼関係に基づく率直なコミュニケーションを瞬時に破壊しうるものである。
- エゴを論理性で包んだかどうかは、その場においては本人にしかわからない。だが時間の経過とともに、やがて周囲にもそれが伝わるものである。エゴを論理性で包む者はやがてコウダプロを去ることになるだろう。
決めつけない
第二十八条
- とかく人は誰かを、物事を、決めつけがちである。とりわけ自他ともに洞察が鋭いと認める人物であればあるほど決めつけが強くなりがちである。洞察が優れているゆえに自分の見立てを過信してしまうのである。決めつけないことが大事である。決めつけてしまうと、事象のあるがままを見ることはできない。今日道端にゴミをポイ捨てした者が、明日世のため人のために大金を寄付する可能性は、ほぼゼロではあるがゼロではないし、信用ならんと思った人物が案外誠実な人物であったということはよくある。洞察することは良いが、決めつけてはならない。そのためにも自分を柔らかく保っていることが重要である。
第五章 生産性
問題を未然に防ぐ
第二十九条
- 火事が大火となったあとに消すのは容易ではないが、大火も最初はマッチ一本の火が原因である。組織の生産性を最も下げるのは事故に代表される突発事項である。事故や突発事項は未然に防ぐか、小さなときに潰しておくのが高い生産性を実現するための最優先事項である。
物が言いやすい
第三十条
- 2人の事務員がいたとする。1人は能力が高く、もう1人は要領がよくない。一見前者の生産性が高いように思えるが、もし、前者は性格が強くて物が言いづらく、後者は素直な性格で物が言いやすいとしたらどうだろうか。コウダプロは後者の生産性が高いと考える。理由は各自考えてみてほしい。
勝手パス
第三十一条
- 生産性が高い状態は「なぜ何のために何をなすべきか」ということが理解された集団が勝手に自律的に動く状態である。これを勝手にパスが回る状態、即ち「勝手パス」という。
- 勝手パスが機能する大前提となるのが、メンバーの心が開いていることである。もし心が開いていなければ、勝手パスは機能しない。
- これはコウダプロ創業者が2002年1月にベンチャー・リンク社の入社研修での模擬ゲームで発見した事実である。
浮きの一本
第三十二条
- 例えば6人で作業を行うとする。これを6人全員で一斉に作業に入るのか、作業に入るのは5人で、1人はローテーションで作業から抜け休憩しながら、様々なるイレギュラーに対応し、5人が快適に作業できるように努めたとする。どちらの生産性が高いだろうか?おそらく、6人同時作業よりも、5人が作業し1人がローテーションで休憩しながら5人の世話係をするというほうが生産性は高い。組織内の連帯感や、貢献意識は必ず5人+1人の方が高まる。作業後の疲労度も全く違うだろう。この作業から外れた1人のことを、定常的業務から外れた1人、すなわち「浮きの一本」と呼ぶ。
- なぜ一本と呼ぶかは、シフトワークの際に1人を一本と呼ぶことに由来する。
3円ケチって3万惜しむな
第三十三条
-
不要な出費は3円でもこだわって節約すべきであり、必要な出費は3万でも惜しまず使うという考え方である。
この出費は、ケチるべき3円か、惜しむべきではない3万円か、それを判断する要点は何か。それは投資という概念の有無である。投資とは、最終的に会社の損益にプラスに貢献するという前提がある費用のことである。
社員旅行に行く、オフィスをきれいにする、社員の昇給、パソコンを買う、出張に行く、お客様を接待する。全て費用がかかるが、それらの費用には最終的に会社のプラスになるという前提がある。これは惜しまない3万の側である。
逆に、白黒コピーで良い資料を、カラーで出力した場合はどうであろうか。これは本当に無駄な費用であり、会社のプラスに何ら貢献しない。これは例え10円であってもこだわって節約すべきであり、ケチるべき3円の側である。
結局のところ、費用の正当性など、数値で証明できるものではない。その場合「その費用の必要性を誰が認めているのか?」という属人的な問題になる。
その際「3円ケチって3万惜しむな」を体現している者の判断には説得力が生まれる。
事の大小ではなく、事の本質
第三十四条
-
ビジネス社会において、事の本質よりも、事の大小が重要視されることが多いが、コウダプロにおいては逆である。
事の本質は、事の大小よりも重んじられる。
不可抗力で問題なしとされる300万円の損失もあれば、絶対に許されない300円の損失もある。
コウダプロでは、事の本質は、事の大小に優先する。その逆はあってはならない。
もし将来、事の大小が、事の本質に優先するようになれば、責任回避の風潮が生まれ、誰もリスクをとった挑戦などしなくなるであろうし、正確な報告が上司に上がることもなくなるだろう。
見えないバランスシート
第三十五条
-
会社経営においても、個人の人生においても、真に重要な資産は目に見えないことが多い。信用・信頼や情報、知見、人間関係、発想力の源となる見聞、影響力、その他すべての経験値。これらは目に見えない。
その目には見えない重要な資産を増大させることは極めて重要なことである。
短期的には手間や費用のかかる事でも、見えないバランスシートを増大させることに投資をすべきである。
中長期的な業績は、見えないバランスシートの資産の多寡を追いかけるという性質を持つ。つまり見えないバランスシートの資産を増大させることが、将来的には目に見える、実際のバランスシートの資産を増大させることになるのである。
自己革新
第三十六条
- 人は自らの潜在能力の発揮を決定的に妨げる心の癖を持っていることが多い。そのような癖が解消した時に、その人の発揮能力は劇的に向上する。その心の癖がとれることを「自己革新」と呼ぶ。また経験を通じて獲得した新たな視点により思考や感性や行動が変わることがある。その視点の獲得もまた「自己革新」と呼ぶ。
- 自己革新を常態とした者に対しては、極力第三十一条にある「勝手パス」にて仕事を任せる事が望ましい。
- おおよそ劇的な自己革新はカオスを伴うことが多い。このことからもカオスの中で道を間違わぬことが肝要である。
創造性
第三十七条
- 創造性は自由で馬鹿馬鹿しい環境から生まれることも多々ある。自由で馬鹿馬鹿しい環境は創造性の維持のために重要である。
事業の全体最適
第三十八条
- とりわけベンチャー企業にとって速さは命と言っても過言ではない。しかし、数多の企業において「間違った目的地に全速力で走り、引き返してはまた走る」ということが繰り返されている。それを繰り返すうちに現場は疲弊していき、心身に変調を来し、最悪の場合は社員が退職へ至る。コウダプロにおいては「正しい目的地に早歩きで向かう」というのが最速と考える。ビジネスは100メートル競走ではなく、100キロ歩行のようなものである。100キロ歩行の中で最速を追求すると早歩きになる。コウダプロの考える事業の全体最適とは100キロ歩行における最速状態のことをいう。
- 目的地の変更も、途中で引き返すことも当然ある。不確定な未来に進む中で、何はともあれ動いてみようという中で、朝令暮改は当然のことである。朝令暮改を恐れてはならない。
- 時として100メートルの全力疾走が必要な場面もある。その時は躊躇なく全力疾走すべきである。
4ゲ主義
第三十九条
- コウダプロにおいて仕事を行う上では、4ゲ主義を旨とせねばならない。4ゲとはすなわち、現地・現物・原典・ゲリラのことである。仕事を行う上で、他人やインターネットから得られる情報を鵜呑みにしてはならない。自らの足で現地へ赴き、現物を手に取り、二次情報ではなくて原典にあたる。ゲリラとは現地・現物・原典から得られたオリジナル情報を元に、自らの頭と感覚を駆使してビジネスを進めることである。
- 各種の専門家に意見を求める場合も同じく鵜呑みにしてはならない。基本的に専門家は非常に有用な存在であるが、前提となる視点や情報、彼らの熱量に有用性は大きく左右される。専門家を頼る場合でも、全体像を把握して論点を理解する姿勢が必要である。
- 4ゲ主義の対極にあたるのは、部下や外部パートナーに必要情報の収集や方針の立案を丸投げして、それを疑うことなく仕事を進めるような姿勢である。このような姿勢は大企業を中心とした他人銭(ヒトゼニ)感覚に侵された職場に散見されがちである。
第六章 コウダプロ憲法の改正
コウダプロ憲法の改正
第四十条
- コウダプロ憲法の改正は、コウダプロのメンバーであればいつでもだれでも発議することができる。その改正案は可及的に全員が参加できる開かれた場で議論され、その最終的な判断は代表取締役が行う。
第七章 コウダプロ憲法との向き合い方
コウダプロ憲法との向き合い方
第四十一条
- 社員および経営者はコウダプロ憲法を、決して崇高なものと考えてはならない。
どのような思想・概念・個人であれ、それを崇高な存在と考えたときに思考は停止する。
コウダプロ憲法はあくまでも道具である。
コウダプロの未熟な創業者が45歳の時点で、考えをとりまとめたものに過ぎない。
コウダプロ憲法は道具である。道具は欠点もあれば劣化もする。
そのような態度で向き合うべきである。
